はてなダイアリーの一冊百選

塩野七生 『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』
上巻(ISBN:4106465043)| 下巻(ISBN:4106465051
海の都の物語―ヴェネツィア共和国の一千年〈上〉 (塩野七生ルネサンス著作集) 海の都の物語―ヴェネツィア共和国の一千年〈下〉 (塩野七生ルネサンス著作集)

自分の身の丈にあった歴史の語り手に出会えるということは、幸せなことではないだろうか。私にとっては、塩野七生はそういう歴史の語り手の一人である。G.M.トレヴェリアンは整然とし過ぎているし、パウル・カレルは乾きすぎているのだ。
その点、塩野七生の、歴史の隙間に物語を見出そうとする作家としての視点は私の波長にあう。同じことは、隆慶一郎池波正太郎にも言えるのだが。

本書に触れるまで、私にとってのヴェネツィアのイメージは「やたらお金持ちな商人の国」であった。要するに、アバロンヒルマルチプレイヤーゲーム「マキャベリ」における位置づけそのまんま、である。

本書は、そういう無知な思い込みを吹き飛ばしてくれた。この国が、有能で誇り高き人間達の、不断の努力と組織としての活動とによって形作られた、人の創りしシステムであることを、塩野七生の筆は鮮やかに示してくれる。

序盤の一節を、かなり長くなるが、引用してみよう。


たしかに、ヴェネツィアは、共和国の国民すべての努力の賜物である。ヴェネツィア共和国ほどアンティ・ヒーローに徹した国を、私は他に知らない。
しかし、庶民の端々に至るまで、自分たちの置かれた環境を直視し、それを改善するだけでなく活用するすべを知って行動したのかとなれば、ゲーテだってそうは思わないであろう。理解と行動は、そうそう簡単には結びつかないものである。庶民には、その中間に、きっかけというものが必要なのである。行動開始に際してきっかけを必要とする人々を軽蔑する者は、その者のほうが間違っている。この点に盲目でないのが、有能な為政者であるはずだ。

有能でありながら、それでいて人間くささをも十分に弁えた、脇役に徹することのできる毅さを持った男たちの物語。

そのアンチ・ヒーローの国の、建国から発展、そして苦闘と衰退、崩壊に至るまでの過程が、それぞれの時代の固有名詞を持った人間の描写を積み重ねて描かれる。

波乱万丈と言うしかない。外交面では神聖ローマ帝国ビザンチン帝国・トルコ帝国・スペイン帝国の狭間での綱渡りを乗り切るために、情報網という名の牙を磨ぐ一方で、経済面では人間の経験と心理に沿って聖地巡礼を観光事業化してみせる。社会面とでも言うべきか、女性を政治から敬して遠ざけるにあたっても、人間心理への考慮を忘れない。

読了の後、私にとってのヴェネツィア人は、人間性への深い洞察力と目的達成への不撓の精神力を併せ持つ、愛すべき現実主義者へと変わっていた。理想を語るのはたやすい。目的に向けての最短の手段を見つけることも、また同様にたやすい。それは困難が存在するとしても技術の次元の問題であるからだ。しかし、理想を実現するために、動かすべき人間の心理を織り込んで手段を構築し、途中に発生する事故や障害を克服して、最後までやり遂げるというのは、実に困難なことである。その困難なことを、1000年もの間、継続してみせた、そういう「ヴェニスの商人」達には、敬意を抱かざるをえない。

非常な長編だが、適度な章の長さと、効果的に挟まれる場面の転換により、途中で倦むことなく読み進めることができるのも嬉しい。

今では「ローマ人の物語」の方が取り上げられることが多い作者だと思うが、本作や「チェーザレ・ボルジア」「レパント三部作」は、題材の妙もあって個々の人間の描写という点では、より面白いと思う。

機会があれば、ぜひ触れてもらいたい作品である。